中国の地震から思う葛藤

中国の地図 上の世界のニュースでも報じられている通り、26日午前8時50分頃、中国江西省(左地図、赤印)でM5.7の地震が起き、現在までに死者14人、377〜8000人以上が負傷、60万人が避難、8900〜1万8000戸の建物が倒壊しているという。またその後の余震も続いているようだ。上の数字に大きな違いがあるのは、昨年末から今年にかけて起きた世界中での地震被災の報道と同じく、被害の規模が全く見えないことに他ならず、今後の報道に注視するほか、さまざまな形での支援が求められるだろう。また世界からの支援のためには中国でも真摯に状況を世界に発信していく必要がある。

と、ハタと思うのだが、「中国」という国としては被災者支援を世界に求めないのであれば、「特に問題はなかった」と世界にアピールすることもできる。アメリカがこの夏のハリケーンの被害を受けたとき、ブッシュ米大統領は「支援はいらない」と『世界の警察官』然として突っぱね、逆にそのお陰で支援が後追いとなり、国内の支持率を失うことにもなった。ただ、どうしてもいらないというのであれば、突っぱねればよい。

突っぱねてしまった以上、それは被災国政府の責任…と言いきっていいのかどうか?と考えると、そこには疑問が残る。

上に書いたように、昨年末から日本では新潟中越、福岡玄海沖での地震、また世界でもインド洋沖地震津波パキスタン地震アメリカ南部ハリケーンと大きな自然災害が続いている。こうした被災地において各国が支援を求めなければ、例えばNGOは支援をしなくてもいいのか?といえば、そうではあるまい。しかし、その一方で、例えば貧困問題に誰彼となく手を出し、モノやヒト、カネを送ればよいか?というとそれに対する批判も数多い。

"グローバリゼーション"という現象が様々な分野で見られるようになったが、そこには人道的な道義的な「意識のグローバリゼーション」と言えるものもまた存在する。目には見えずとも、さまざまな分野において発生するグローバル化がもたらす人々の意識の変化のことだ。例えば「人権」という意識は、確かに西欧的に作られたものかもしれないが、共通して人間が社会に対して持つ権利も存在する。だからこそ、制度によって割り切る(ことしかできない)政府などを越えたアクターの存在が求められるようになっている。

何も頭が整理されないまま、中国の地震被害の報道を目にしてただただ考えている。そこに支援を呼びかける言葉があれば、このブログでも紹介することになるだろう。それはもしかすると、悪しきグローバリゼーションに加担することになるかもしれないが、何より中国の被災者の人たちの「命」を守りたいという思い出もある。自分の中のコンフリクトをどのようにおりあいをつけていくか?・・・これはNGOに関わる限り常につきまとう問題だと思う。