あなたは普通ですか?

「普通」という言葉は、昔と比べて随分と使用頻度が高いと思うんです。普段の生活の中でもそうだし、NGONPOに関わっていても耳にすることが多いなぁという気がします。その言葉は、「みんなと一緒だよ」という意味合いを自分の行動に持たせるために使われていて、時に協和的に、時に排外的に使われます。

前者はまぁ、頷けるところも多いんですが、後者はちょっと「ん?」と思うかもしれませんね。でも、「自分たちのNGO/NPOは普通だけど、○○はねぇ」みたいな使い方がそうですよね。自分たちが普通だということをアピールするというよりは、対象とする団体が自分たちと違うことをアピールするために使われているような気がします。それが悪いというよりも、言葉がもたらす影響に不感であることが気持ち悪いという…。「右」だとか「左」だとかいう発言もまたそうです。

大学生・上野陽子さんの実証研究をまとめた卒論を中心に、指導教官だった小熊英二さんが、出来事の前後関係をまとめて一冊の本にしたのが、『“癒し”のナショナリズム―草の根保守運動の実証研究』(慶応義塾大学出版会)では、「新しい歴史教科書をつくる会」を題材に、この現代にはびこる「普通」という言葉から、日本におけるナショナリズムに言及しています。

“癒し”のナショナリズム―草の根保守運動の実証研究

“癒し”のナショナリズム―草の根保守運動の実証研究

小熊さんの「つくる会」の言説分析(歴史の検証部分ではなく)は面白い。また会が作った「新しい公民教科書」の矛盾点(これもまた歴史や制度の検証ではなく、単に思想的不具合のごった煮感の哀れさ)も読めば必然。他の教科書を作る前に、ちゃんと勉強しろよ!と思うしろもの。また上野さんの実証研究、つくる会の神奈川の有志団体「史の会」の参与観察は雑然とした形態ではあるけれど、現実の彼らの息づかいと戸惑い、幼さもまた伝わってくる。

彼らの言説の中にたびたび登場する「普通」という言葉。「普通の感覚を持った庶民」と自称する彼らが行う活動やそのなかの言説を形作るムーヴメントを、小熊さんは「都市型ポピュリズム」と読んでいるけれど、そうした気質は少なからず、NGONPO、また市民運動という、「つくる会」からみれば「サヨク」ななかにも同じようなものが見え隠れしている部分もあると思う。(これは小熊さんが指摘している通り、組織・団体・ネットワークの作り方もまた似た部分が多くある。)

「普通」という言葉に関して「つくる会」と、「新しい社会運動」と呼ばれるようになった市民運動以降の最近の平和運動などの市民ムーヴメントの違いが何か?というと、以下の小熊氏の説明につきると思う。

「ふつうの市民」という言葉を社会運動の中で広めたのは、ベ平連の旗揚げ役を担った小田実である。しかしその「ふつう」は、「以上」を排除するものではなかった。……そこでいう「ふつう」とは、既存の認識枠組や党派性、そして排除の構造を拒否した、分類不能で種種雑多な人々を形容するための言葉だった。しかし「史の会」のメンバーたちがいう「普通の市民」とは、そのようなものではない。それは、常に自分が「普通」であることを立証したいという不安におびえ、そのために<普通でないもの>を発見し、排除し続けてゆくことでアイデンティティを保とうとする人々によって作られる共同体なのである。(p.217-218


そして、そこに「癒し」を求める。そんな中で作られるムーブメントをタイトルのように名付ける小熊さんの分析に深く肯首します。そして、自分たちはどうなのか?ということを省みるのです。