「国の責任」から「個人の責任」への非常識な転換〜ファルージャで起こっていること

アメリカ軍のイラク中部ファルージャへの攻撃は徐々に終焉に向かっているのかもしれません。それは、どれだけの軍事力をファルージャに向けても、ファルージャが陥落しないという現実を表しているとも言えます。

共同通信の記事によると、中東の衛星テレビのアルジャジーラアルアラビーヤが16日に、米兵がイラク人負傷者を射殺した映像を流しました。日本の夜のニュースでも流れていました。これで、今回の事件に対してもイラクや周辺アラブ諸国からの反発の声が挙がるだろう…という記事ですが、これは第1次ファルージャ侵攻が終わったあとの様相を思い出させます。

「最初のファルージャでの大量虐殺」が行われたこの春、そのファルージャでの大虐殺から辛くも目をそらさせた方法は、アブグレイブ刑務所でのイラク人虐待でした。それは、「アメリカ」という国が行ったファルージャでの出来事を、数人の「アメリカ人」しかも「常軌を逸脱したアメリカ人兵士」という個人でした。そして、今回の第二次ファルージャ侵攻もまた多くの市民の命を奪った「アメリカ」という国の責任から、上の記事にあった「アメリカ人兵士」の問題へとすり替えようとしているように見えて仕方ありません。そして、それは同時にファルージャでの戦闘の終結を方向付けているようにも思えます。

今日夜、閉店間際の本屋さんで購入した、土井敏邦さんの『米軍はイラクで何をしたのか―ファルージャと刑務所での証言から (岩波ブックレット)』(岩波ブックレットNo.631)を読んでいて、今年4月のファルージャでの出来事の「イラクの声」をいくつか知りました。土井さんの丁寧なインタビューで綴られた、ファルージャでの数々の出来事は、写真を見るほどの衝撃的なイメージはありませんが、逆にジンジンと胸の奥に響いてくると同時に、怒りもまた溢れてきます。

複数のインタビューの中でファルージャの人たちが綴るのは「尊厳」という言葉です。「時には"生命"という価値より大事」だと述べる彼らの尊厳を踏みにじったのが、米軍の攻撃→大量虐殺であり、そしてアブグレイブ刑務所での出来事でした。詳しいことはこのブックレットに書かれているので、是非読んで頂きたいのですが、ひとりの聖職者が著者に語った言葉が、この出来事の酷さを表しています。

「あの光景を目撃したすべての囚人は刑務所を出ると、きっと米軍と闘う「戦士」になるでしょう」(p.58)

そう、少なくとも4月の第1次ファルージャ侵攻において銃を持って立ち上がったのは、アルカイダなどの外の勢力ではなく、まさにそこの住民でした。そして、おそらく今回も幾らかは間違いなくそうでしょう。「尊厳」を奪われた彼らが銃を持ち立ち上がり、それを後方から支援する住民も多数いたはずです。そして彼/彼女たちもまた「大量破壊兵器」によって命を奪われているという現実は、「アルカイダ」「テロ」という言葉を繰り返す国々に跳ね返さなければならないのです。参戦国である日本の市民としても。