なるほど!「市場の社会的深化」ね。ふむ!

この間も書いた「政治と経済の一体化」という問題について触れられている本を読みました。画像にもある姜尚中さんとテッサ・モーリス−スズキさんの『デモクラシーの冒険 (集英社新書)』(集英社新書)という対談形式を取られた本です。

デモクラシーの冒険 (集英社新書)

デモクラシーの冒険 (集英社新書)

「デモクラシー」というものを現代世界においてどのように考え、捉えるか?ということを中心に行われた対談は、テッサ・モーリス−スズキさんの提案されたひとつの文章を元にして始められます。それは次のようなものです。

「あなたは、自分たちが暮らしているこの世界をよりよい方向に変えていくことが可能だとしたら、そうすることを選びますか?」(p.14)

オーストラリアのハミルトン島で繰り広げられる「デモクラシー」論議は非常に知的好奇心を擽られます。冷戦終了後に御旗として掲げられた「自由」(それはイラクでも掲げられたわけですが)によって生まれた「デモクラシーの空洞化」から始まり、政党や世論を巡るもの、直接・間接民主主義を史的解説し、最後に僕たちの「暮らし」のなかへとそれを収斂させる…というように流れていきます。

そのなかにひとつの章を与えられて語られるのが「国家と企業の癒着」、グローバル権力の誕生にまつわる話です。丁寧に教科書のようにフォーディズムから語り起こされる話のなかで、現在起こっている状況を、テッサ・モーリス−スズキさんは「市場の社会的深化」という言葉で、ネグリ/ハートの『<帝国>』から想起された用語で説明しています。

彼女は、この「市場の社会的深化」が顕在化した背景を「西が東に勝ったとき、企業経済(コーポレート・エコノミー)の貪欲な蓄積への意志を抑制する壁が、壊されてしまった」のだと説明します(p.47)。そして「これまでの商品経済の範疇になかった領域を市場が侵食し始めた」のであり、それが教育や国家安全保障のようなものに波及しているのだと説明しています。
そして現在世界規模で進められる「民営化」は、「国家と私企業との新たな癒着」を生み出す「従来のデモクラシー理論がぜんぜん視野に入れてこなかったブラック・ボックス」なのだと書いています(p.75)。そして「国家と企業が融合したとき、公的領域(commonsの領域)や、個々人の私的所有の領域 (private propertyの領域)の双方が抑圧されはじめた」といっています。

これまでこのブログを読んで頂いた方にはいくつかピン!と来るものがあるでしょう。そうです。イラクで起こっていることであり、またWTOAPECなどで進められている現状がまさにそうですよね。そして実はその問題というのはどこかで僕たちも気付いてはいるのだけれど、国家やそれと結びつく多国籍企業などによって生み出された大きな権力に向かい合ったとき、「どうすることも出来ない」と占拠に足を運ばなかったり、無関心を装うということになっているのかもしれません。

そうした状態に姜さんとテッサ・モーリス−スズキさんはあきらめろともちろんいうはずもなく、最後にこういうのです。

 デモクラシーは、決して完成されることがない。絶えず未完成であり続けるはずだ。人間としての限界によって制約はされていても、デモクラシーの空間にデーモス(注:「デモクラシーを望むすべての人々」)として足を踏み入れ、自分たちが公的な存在として相互に認知し合うとき、自分は決して無力ではないことを初めて感じるのではなかろうか。そのためには、不満を持ちつつもどこかで無力感と裏腹な居心地の良い「消費者」であることから抜け出さなければならない。(p.238)

この新書は対談形式を取っていてすごく読みやすく、また途中途中に「遊び」も入っているんですが、全体として「デモクラシー/民主主義」を考えるには良くまとまった本だと思います。同時に、「行動する」ということをこれだけ心地よく行おう!と思える本もなかなか内のではないかな、という気がします。

この本の最後、奥付け直前の本当に最後に「みんなでつくるデモクラシー・マニフェスト」というものがついています。ここに書かれたものの中で一番最後の項目がやはり力づけられるものでした。本当に最後の最後まで。

 「10.すべての人間は、自分たちの暮らしをよりよい方向に変えられるボタンを持つ」

今の社会に不満を持っていて、けれどどうしたらよいかわからない。今動いていても今ひとつ自分の中で納得ができないという方、是非読んでみたらいかがですか?チョーオススメです!!