新潟とファルージャ〜鏡の中の自分

共通点のない2つの「場所」をタイトルに最初に持ってきたのはいいものの、実は今この二つをその外側にいる人間が安易に語ることの「怖さ」というのをすごく実感します。とはいうものの、「語らない」ということは更に怖いことだと思うので、NGONPO市民運動に関わる人たち、それだけでなく多くの人たちは声を上げるのだろうと思います。僕もそうです。

この2つの今大変な「場所」をあげたのはひとつの理由があります。それは前者「新潟」を支援するものはNPO、後者のイラクの「ファルージャ」を支援するものはNGOなんていう、どこかしらで思ってしまいがちだという問題点をここで強く感じるからです。

もちろん、片方は震災で天災で国内。片方は戦争で人災で国外という違いはあれど、両者で被災した、被害をこうむった「人びと」とどのように向き合うか?という点においては何も変わらないのではないか?と改めて思います。

ここ最近のNGO福岡ネットワークのテーマは「地域」です。ここでの地域には様々な意味を含みます。今行われているNGOカレッジもまた「地域との連携」というテーマを掲げていますが、パンフレット・チラシ・HPに並んだタイトルを見て、それを連想することが困難なものもあるかもしれません。

しかし、「人びと」と向き合うとき、それが国家や地方自治体のような人為的な枠組みを超えた「つながり」に意識的であるとき、本当にやるべき事が見えてくるような気がするのです。国際協力NGOが活動する地域は確かに外国が多いです。しかし、そこで向き合っているのは「人間」である以上、それは国内で活動する(といわれる)NPOの活動や市民運動の活動となんら変わらないのではないでしょうか。そして対象とする「地域」というのは地図の上の国境を軽く跨いでしまいます。

僕たちは、新潟と同じくらいファルージャを、ファルージャと同じくらい新潟を思うことが求められていると改めて思います。そしてその姿は同時に、「鏡に映った自分」であることも認識します。「鏡に映った自分」は確かに「自分」ではないけれども「自分」だというくすぐったさと居心地の悪さを抱えて向き合うものです。

それは安易に被害者に自分を投影するということではありません。しかし「あれが自分だったら」という想像力と、被害者がどう考えているか?ということの想像力を生み出すことはできます。例えば、被災地に物資を送るとき(これは途上国への援助もまさにそうですが)、戦争に向かい合うとき、その「鏡に映った自分」に常に問いかけて行きたい。

そうした活動をすることをこれからも常に心にもっていたい。そう思うのです。

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週に3日ほど働いているNGONGO福岡ネットワーク(FUNN)でメルマガを隔週で出しているのですが、そこに掲載した文章に加筆しました。ということで今日2つ目の記事でした。