「ワークショップ」から参加・選挙を考える

昨日のNGO福岡ネットワーク(FUNN)の講座「NGOカレッジ」の第3回目は前2回が講演主体の講座だったのに対して、時間の半分くらいは「ワークショップ」と呼ばれるものを行いました。この「ワークショップ」という言葉は、最近では徐々に広まってきた言葉だろうが、NGONPO以上にまだまだ一部の人にしか伝わらないかもしれないですね。

「ワークショップ」というのはなかなか説明するのが難しいんですが、学校の授業や講演のように一方的に考えや思い、知識や技術を伝えるのではなく、そこに集った参加者自身が主体となって作っていく場所のことです。今まさに皆さんが見ているインターネットや、テレビのデジタル放送などの視聴者参加型の番組などが増えてきていることから見ても、「参加体験型」の場所というのは増えてきているように思います。また「体験型」というだけあって、頭で考えたり言葉にすることだけではなく、体を使ったものなども多いですよね。(現代演劇や美術の分野においても昨今は多いですね。)

ワークショップ―新しい学びと創造の場 (岩波新書)

ワークショップ―新しい学びと創造の場 (岩波新書)

これは体験してみるとすごくよく分かるのですが、自分の考えというのがやはりどこかにはあるはずで、それを言葉や体で拙いながらに人に伝えようとすることで、寄り自分の中で物事が明瞭化されます。またさまざまな問題と向き合っても、より体感的に理解することができます。キーワードは「参加体験」というもの以外に(もちろんこれも「参加」と「体験」に分けて考えることが必要ですが)、「相互作用」というものがあげられると思いますが、これはそれゆえです。

しかしまだ日本ではこの「ワークショップ」的なものを苦手とする人が多くいます。NPO/NGOは「良かれ」と思って、こういう形式で行ったりしますが、まだまだ「話を聞いている」方が楽だ、と思う人も多いです。それはただすべきことでも悪いことでも何でもなく、そういう「参加」の方法をとることを求めていると、僕たちは理解すべきでしょう。

援助を行うにあたって、「参加型開発」などという言葉がよく使われます。そして、それはもやは政府などが行う中にも取り入れるように求めたりされます。そして報告書には現地で参加型のワークショップを開催し住民参加の上で行われたということが書かれます。しかし、それはある種の隠れ蓑になっているような気もします。そういう場所を作ればそれで「参加型」という理解は正しいものではないでしょう。

「参加をしない」という参加型の方法をとる人をどのように受けて考え実行することができるか?またそれをすることができる社会・仕組みが必要となるでしょう。例えば、「選挙に行かない」という判断を下すと、「なぜ行かないのか?」「行かなければ何も変わらないじゃないか!」ということを言われます。確かにその通りですが、それを糾弾するのは「行かない人」に対してではなく、「行かない人」のことを考えられる社会に対して行うべきです。そしてそれは糾弾する人もまた含まれますし、それに意識的であるかどうかを問わず「行かない人」もまたその中に含まれます。

今、アメリカやウクライナでの選挙のあり方が問われています。(アメリカのウクライナへの言い分が如何に笑えるかは、「暗いニュースリンク」記事を参照してください。)ここで問題とされているのは、投票された人間と社会のあり方です。両国で選挙に行かなかった/行けなかった人(というのが制度的にどれほどいるのか?ということの詳細は分からないのですが)は「ほら見ろ!」と思っているでしょう。

社会は、そうした「参加しない」人たちの意見を如何に採り入れることができるか?ということが改めて求められていると思います。それは単に制度的に「選挙」という選択で政治が行われ、社会が作られている以外に、どれだけ「批判的対話」が可能な場所を作り出せるか?ということが一番重要なことだと改めて思うのです。

「ワークショップ」もまた「参加しない人」の意見をどれだけ取り込めるか?ということに意識的であることが必要でしょうし、別の問題として、方法論だけで問題意識や取り組みのないものが最近徳に多いことは問題だなぁと思ったりします。