"あいのり学校"に見る、援助者のいう「自助努力」について。

昨日のブログの終わりに書いた、本当は昨日書こうと思っていた(笑)、フジテレビの恋愛バラエティ「あいのり」が行っている"あいのり募金"の新しい展開についてちょっと気になるので書いてみようと思います。

この募金の説明として使われている「皆さんから寄せられた募金は、100%アフリカの子供達とアフリカのさまざまな問題のために使われます」という説明についてのブログを以前書きました(こちら)。それは、NGOが行う募金との差異化のはかられ方がおかしいということでした。総額900万円近いお金が寄せられたこの募金が今後どのように行われるか?ということは、そういう意味でも興味がありました。

先日の番組の最後に放送されたその内容は、エチオピアに"あいのり学校"という小学校を建設するというものでした。全世界で読み書き計算できない人が8億 8000万人いること、また1億2000人が学校に行けない状況を説明し、小学校を建設しようというものです。「また安易な…」と多少の軽蔑を持ってHP を見に行くとそこにはきちんと説明がされていました。曰く、

「もちろん、お金をポンと払って建物だけを作ろうというのではありません。ハコモノだけ作ってあとはほっておくという援助が多いですが、そんな援助にならないよう気をつけなければいけません。現地の建設会社に詐取されてしまう事がないようにすることも必要ですし、先生がその小学校でずっと働いていけるような環境にするために、学校建設後も継続的にフォローしていくことが大切だと思います」("あいのり学校"のHPより)

せっかくまともなことを書いているのに、なんだかいちいち"あいのり"は引っかかる書き方をしますね(笑)。下線を引いている所なんか、さもNGOが行う援助ってのはそうだといわんばかりなのが気になりますね。……まぁ、それはともかく、こうしたあとのフォローをすることができるように、現地で活動する日本のNGO日本国際飢餓対策機構(JIFH)」との共同プロジェクトにするそうです。懸命な判断ですね。下手に国際機関や向こうの政府とやると、今フジテレビが持っている優位性は確かになくなります(すこし意地悪ですね)。JIFHのメンバーの方に以前会議でお会いしたことがありますが、是非素敵な援助にして欲しいなぁと思います。

あともうひとつ、この学校への募金の利用に関して説明したHPの文章で気になるところがあります。こちらの文章です。

「安易に多額の現金や物資の援助をすると、援助に頼って働かなくなる人や、援助したものを詐取しようとする人が増え、結果的に貧富の差が広がってしまういことになりません。援助の怖さは、時に人々の働く意欲を削いでしまうことにあります。(中略)……アフリカの人々の自助努力を損なう事にならないためには何が必要なのか?一番大切なのはやはり教育ではないでしょうか?」

これは外務省がODA(政府開発援助)を語るときによく使うものと共通するところがあります。それが下線部の「自助努力」という言葉です。例えば、外務省の『経済協力Q&A』に「日本の援助の基本理念である被援助国の自助努力を促す援助形態として、長期返済、低金利円借款があります」(p.28)という文章が典型ですが、この言葉が意味するのは「援助するもの」としてのある種の責任放棄ではないか?と思うのです。ODAに関してみれば、その結果が途上国の借金=債務として残ったままです。それは現在のイラクにおいても以前書いたように債務問題として表出しています(「債務」については例えば、債務と貧困を考えるジュビリー九州のHPをご覧下さい。)。

自助努力をいうならば、「学校を建ててあげる」こともまた同じことです。となれば、問題は何か?というと、現地に住む人たちの本当に望むことができているか?ということでしょう。例えば、「学校に行かない」という判断は、いくら学校ができても、明治時代の一番最初の小学校のように金銭的にいけない人も出てきますし、逆に学校に周りが行くことでの差別も生まれます。もちろん、"あいのり募金"のHPで「ニーズを調査した」と書いてある通り、本来必要であるところにできたのでしょうが、これに限らず大事なことです。

お金やものの援助を考えるとき、ここが重要になってくるように思います。もう少しこの「援助」というものについて、このブログにおいて、これから続けて考えてみたいと思います。このページで取り扱うことは「貧困」「環境破壊」そのものだけではなく、その背後の構造、そしてそれに対する僕たちの責任についてだと思っているので。

長くなりましたが、今日はこのあたりで。