モノを送るということ

以前このブログに書いた"あいのり"について番組のプロデューサーの方からコメントを頂いて(ありがとうございます)、また逆に色々と考えたりしています。せっかくだから今日の番組を見て…と思ったのですが、今日は特に書くことはなかったです(笑。でもラスタ村には行きたいです)。

前に"あいのり募金"で学校を建てるということについて書いたときに、最後の方で「援助」について書きました。プロデューサーの方のODA(政府開発援助)についてのハコモノについてのコメントもありましたが(先ほどホームページを見たら前回書いたものと表現方法が変わっていました。心遣いが嬉しいです)、最近はNGOも学校を作ったりといったハードの援助というモノが増えてきました。もちろん、その一方で「モノ」を送るというのはずっと続いていることです。震災や戦争のような、非日常な出来事が起こっている地域に対して、新潟中越震災への援助のように、ものを送るということは必要な場合が多いだろうし、そうでなくても必要だろうところはたくさんあります。

仕事の中で、NGOについて、またこうした援助についての相談を受けていると、時々「モノを送りたい」という相談を受けることがあります。毛布や古着などはその中心的なもので、最近はそれに加えて裏紙ノートなども相談があります。

日本で無駄になっているもののなかでもまだまだ使用に耐えうるし、実際に内地域があるのであれば、それを届けたいという「善意」に溢れたもので、その心意気は大変素晴らしいと思うことも多々あります。しかし、それが「援助」として適切かどうか?ということはまた別問題だろうと思います。話をして下さった方の「善意」を如何に無駄にしないようにお話しするか?ということは非常に難しいところですが、実際にそうしたモノが送られる地域のことを考える必要があります。

基本的に援助というのは、それを受ける人たちが自立して生活していけるように行う必要があります。"あいのり学校"のHPに書かれているように、「本当に何を必要としているのか?」ということを考える必要があると思います。テレビや雑誌などを通して、「可哀想」と思う心にプラスして、「彼らは何を必要としているのだろうか?」「モノを送る際にそれがどのように使われているか?配分されているのだろうか?」ということをきちんと見ることが必要になるでしょう。

「それじゃあ、大変だ」と思われるかもしれません。もしそう思うのであれば、モノを送ることはやめておいた方がいいと思います。ただ、「それでも!」と思うことができれば、いろいろと調べたり、NGOなどと協力して行うことで、より素敵なことができるだろうと思います。

逆に、「モノを持っていって現地の人に喜ばれた」「持っていってくれた方が喜んでいることを報告してくれた」ということをいわれる方もおられます。それはおそらく事実でしょう。しかし、実際に援助を受けている人たちが「いらない」ということを口にすることはほとんどないのだという現実もまた知っておいて欲しいことです。援助者がいなくなったあとに廃棄されたものはたくさんあります。また新しい「文化」を持ち込む場合も往々にしてありますから、それがその村約二でどんな影響を与えるか?ということにも敏感であるべきです。

人の生活に関わること、それが援助であることをしっかりと考えて「援助」(モノに限りません)を行いたい。そのひとつの例がこのブログでもよくあげるイラクでの自衛隊の援助です。現地で援助が喜ばれている…その言葉を素直に受け止める心も大切ですが、イラクの人たちの生活が破壊されつくしている今、「そんな援助はいらない」と口にしたとき、世界から何もやってこなくなるだろうことはみんな分かっているのです。そうした言外の理を聴き含めることが何よりも僕たちには大切なことだろうと思います。