「開発教育」とは何か?

昨日のブログを書き終えたあとに、使った資料などを整理しながらふりかえっていたのですが、改めて「開発教育」というものは難しいなぁと漠然と考えたりします。……と、今では普通に「開発教育」という言葉を使っているんですが、実際、これを説明しようとすると非常に難しいですね。

(特活)開発教育協会ではつぎのように紹介されています。

開発教育は、私たちひとりひとりが、開発をめぐるさまざまな問題を理解し、望ましい開発のあり方を考え、共に生きることのできる公正な地球社会づくりに参加することをねらいとした教育活動です。


1960年代に始まったこの「開発教育(development education)」が持つ40年余りの歴史のなかで、その意味合いや方法論は随分変わってきたようですが、途上国での活動をベースとしたこの開発教育というものはやはり国際協力分野で関わる問題を如何に伝え、考えるか?というところに繋がっているような気がします。

例えば、「国際理解教育」という言葉もあります。日本ではこの言葉が非常に「国家主義」的な意味合いを強く持っていることを考えると、その立地点が異なっているような気がします。やはり「開発教育」は多様性を取り上げつつも、その普遍性もまた持っているグローバルな色彩を持っています。

また方法論にどうしても収斂されてしまいがちなのもこの「開発教育」なのかなという気もします。今年の夏に福岡で開かれた開発教育に関する集会に関わって、この方法論的なものがまた「売り」であるという気もします。確かに(特活)開発教育協会のウェブサイトにあるように、「知識伝達型」ではなく「問題提起型」であるという大きな特徴があり、そのための方法論が大きく必要であることもまた事実ですが、それはNGOなり、学校の先生なりが、ワークショップや参加型の方法論をとってもなお、「問題提起型」に往々にしてなっている例というのはたくさんあるように思います。反対に「講演」を行っていても、「開発教育」となっている例も時としてあるのかもしれないということも考えます。

一口に「開発教育」というと、やれ、ワークショップだ、やれ、参加型学習だ、やれ、ファシリテーターだと、その方法論に多くの意味合いを持たせてしまいがちですが、NGOとしてこれに取り組むにあたって、やはり一番考えなければならないことは、問題解決に向けた具体的な方向性を如何に参加者の人たちと一緒に考え、作り上げていくか?ということなんだろうと思います。

そのためには、「開発教育」を行う人や団体が持つ「問題意識」に多くを拠ることになり、また具体的背景をどれだけ理解し、またそれをその問題に反映させていけるか?という具体的なプロセスをまずは持つことが必要になるのだと思います。

そう思うと、「開発教育」オンリーで動くことの危うさを改めて感じます。昨日のワークショップを通して行ったことを、自らの団体やネットワークに持って帰って、如何に生かすことができるか?(もちろんそれは方法論ではなく「問題解決」に向けて)ということを改めて考えて、「地球社会」という立地点に反映させていかなければならないのだろうと思うのです。反面、ワークショップと講演という2つの方法論で伝えることで、フォローできたこともあるだろうと言う思いもありますが……。

……と、書きながらもやはり「部屋の四隅」だとかゲームだとかの具体的な方法論に収斂してしまう危うさを個人的にも抱えてきて、「開発教育」というのは難しいよなぁと改めて思います。