「開発教育」とは何か?:その2

いくつかコメントを頂いたのでもう少し「開発教育」について書いてみようと思います。

昨日も紹介した(財)開発教育協会はウェブサイトで開発教育の目的を「共に生きることのできる公正な地球社会の実現」としていると書きました。そしてそのために必要な目標は「(1)知ること、(2)考えること、 (3)変わり、行動すること」とあります。ここで考えてみると、この(3)というのが、一番の特色であると言えるのだろうと思います。

昨日のブログで「問題解決に向けた具体的な方向性を如何に参加者の人たちと一緒に考え、作り上げていくか?」ということが一番大事だと思うと書きました。しかしこれは反面Guchiさんが書かれていたように、「中途半端で終わりがち」であるのも事実です。また参加した「開発教育」を掲げる講座でここに辿り着いたことはありません。

それはおそらく「開発教育」と呼ばれるものの実際は、「方法論」に終始しているのではないか?と思うからです。先日、いわゆる「講演」に参加しましたが、そこで講師の方から出されたいくつかの具体事例の連なりは「これはできそうだからやってみよう」と思えるものがありました。その方が極めて「変わり、行動する」ものに近かったのです。

「開発教育」には、himajinさんが書かれていたような「参加者の知識等の差がある」がためになかなか自分のなかでストンと落ちるようなものが生まれないのかもしれません。もちろん、対話を重ねるなかで「こういう考え方もあるのか」と思ったことはたくさんありますが……。

友人が「ワークショップ・参加型学習は答えがあるときにするのがもっとも効果的だと思うときがある」と言っていました。これはすごく言い得て妙です。「伝えたい、知って欲しい」ことがあるからこそ、それをワークなどの「面白く楽しく入りやすい方法」で行うわけで、おそらく、そういう思いを明確に持っているファシリテーターの方に会ったときには「勉強になった」と思って変えることが多いのだろうと思います。

そうなると、「開発教育」というのは、前のブログの記事に書いたように、「国際理解教育」のような「国家主義」的性格を持つものとの立脚点の差異のみを表しているのでしょうか?つまりは、開発教育が「地球社会」という視野で取り組む教育方法という理解です。

僕が関わっているネットワークNGOもここ3年ほど「ファシリテーター」を養成する講座というものを開催しています。今年は教材づくりがテーマですが、「何を伝えるか?」ということをどれだけ意識して、またその問題背景を学習した上で皆さんが参加してくれるのか?というのが楽しみです。一方で、「これを受講すれば何か資格が得られるのか?」という問い合わせもあるこの講座、「資格」をすぐに求めようとすること自体が「ファシリテーター」「開発教育」に適していないなぁなどと思ったりもしますが、単に「教材」という成果を求めるのではなく、そこまで辿り着くための「苦労」を一番持って帰ってもらえると嬉しいなと思っています。

それにしてもワークショップは時間がかかる…というのはひとつの事実でしょうが、何にしろ「区切りがない」ものはないだろうと思っています。貧困なり環境破壊なり、人権侵害なり、時が経てば経つほど問題はより複雑に大変になってきます。

「もっと時間があったら良かったのに…」と思える開発教育の講座に出会えると素敵なことです。しかし、その「時間」の感覚もまた、現地で今まさに問題に直面している人たちを考慮することが大切なことだろうと思います。

そういえば、この間のとあるワークショップでは、それをコーディネーターをした団体の人自らが「もっと時間があれば良かったのに…」と言っていて閉口してしまいました。最初から時間は決まっているし、そのなかで参加者の人たちに考えてもらう「しかけ」を作るのが仕事だろうに…と思うと、「開発教育」ってのも考えものだなぁとか思ったりしたのでした。