戦争の気配を感じ取ってください。〜三崎亜記『となり町戦争』

昨年のとあるイベント集会でパネリストのひとりがこう尋ねた。「このなかで戦後生まれの方はどのくらいいますか?」と。この質問に会場内の多くの人が手を挙げた。そしてパネリストの方は手を下ろさせたあと、「あれ?今、日本は戦中じゃないんですかね」ということを口にした。会場内の人で「あっ…」と、説明される前に気付いた人は実はそれほど多くないだろう。

おそらく先日のロンドンでの同時多発爆発事件を受けてもなお、イギリスの人たちは自らが「戦時中」であることに意識的である人は実はそれほど多くはないのでは?という気がする。以前のエントリーで彼らが「日常」に戻ることを最優先に、好戦的な方向に進まないでいる姿を肯定的に書いたけれど、それは度が過ぎると、自らが軍隊をイラクに進め、戦争に加担し、また占領を続けている現状をも忘れ去ってしまうことになる。またはそれが「当たり前」になる。そちらが日常と化してしまう危険性についても以前のエントリーにおいては触れているけれど、爆発事件後のロンドンの様子の報道のなかでは、ことさら「日常」という言葉が連呼されていて、「非日常の日常化」が生み出す弛緩がさらなる事件を引き起こすこと、そしてもちろんイラクでの多くの人の命を奪うということを忘れ去らせてしまう危険性がある。

逆に、現在のイラクの状況を良く思わない側はまた「暴力」という方法で、「日常化された非日常を非日常化する」という二転も三転もした複雑な状況を生み出すことになる。19日にアルカイダ系組織「アブハフズ・アルマスリ軍団」なるグループが「イラクに軍隊を駐留させる欧州諸国」への警告を行い、「もう新たな警告はない。あるのは欧州の心臓部での行動だけだ」というテロ予告を続けているが(朝日新聞)、屋上屋を重ねる、けれど引き下がれない現実をお互いに進めるしかないというのが現状になっている。

冒頭の話に戻るけれど(昨日のエントリーとも繋がるけれど)、日本が「戦時中」であるという認識が生まれるか否か?という判断に繋がるのは、「どれだけ知っているか?」ということとも繋がるだろう。アメリカの戦費が僕たちの銀行貯金かもしれないという認識を持つか否かだけでも違う。三崎亜記の小説『となり町戦争』はその辺りを丁寧に作品にしている(とりあえず今回は技法であるとか描き方の気になるところはおいておくこととして純粋に中身について書く)。

となり町戦争

となり町戦争

 昨年の「小説すばる新人賞」を受賞し、直木賞候補にもなったこの作品では、公共事業として行われる「戦争」という不条理な設定を駆使して、「いつの間にやら取り込まれる」という状況を上手く表している。「まちづくり」の一環として行われる「となり町との戦争」は、主人公にとってはまったく持って「リアル」ではなく、自分自身が「偵察要員」として関わることになってもそれは変わらない。関わる中で徐々に見える戦争の姿や人の生き死にを通して何となく気付くことにようやくなっても最終的にはいつの間にやら戦争は終わって「日常」が戻ってくる。それは、案外、今の日本と変わることはなく、批判的な目を持って今を物語にしたこの作品が指摘する「リアル」がビシビシと肌に突き刺さる人は案外少ないかもしれない。

 この小説の中で次のような台詞がある。

「戦争というものを、あなたの持つイメージだけで限定してしまうのは非常に危険なことです。戦争というものは、様々な形で私たちの生活の中に入り込んできます。あなたは確実に今、戦争に手を貸し、戦争に参加しているのです。どうぞその自覚をなくされないようにお願いいたします。」(p.39)

 別に戦争には限らないけれど、複雑なこの世界/社会のなかですべてを把握することは困難で、眼前の実生活のなかに取り込まれて見えなくなることはある。しかし、それに自覚的であるか否か?では大きな違いであることは確かだ。任せるのではなくて、複雑であるからこそ、どれだけそれを見よう、知ろうとするか?ということこそが今まさに求められているんだろう。作品中の登場人物の台詞は、それを短く、けれど的確に伝えている。それを最後に。

「戦争の音を、光を、気配を感じ取ってください」(p.101)