問題解決のための開発教育をめざして

今日はお仕事をお休みして、昼から某女子大で授業をしてきました。甲子園風に言えば、3年連続4回目の授業です。毎年こうして呼んでいただけるというのは嬉しいことでH先生には心から感謝。「世界経済と英語」という不思議な授業をしている(正式名称は忘れましたが)この授業は大学1年生が受講するということで、言わずもがな「世界経済」なんてものがわかる・・・どころかイメージすることも困難なはずで、その導入的な位置づけで、開発教育のなかの一つのアクティヴィティである「貿易ゲーム」なるものをしています(「貿易ゲーム」についてはこちらの(特活)開発教育協会のウェブサイトをご覧ください)。

「貿易ゲーム」のファシリテーターをするのは好きです。たぶん自分の持つ問題意識はもちろん、NGOの活動とも密接に関わっているからだと思います。最近、NPOやNGOはもちろん、学校などでもさかんに「開発教育」が取り入れられていますが、その多くはすごくやること自体が目的化してしまっているだけではなく、なんだかファシリテーターや主催者、先生がたの満足のためだけにやっているような気がします。もちろんやっている側には「思い」があるのは良くわかるのですが、それが少しも問題解決に繋がるものではない「方法論」的なものに集約されているように見えるからです。

開発教育に取り組む方から、よく「参加者がこれを機会に一人一人考えるきっかけになればいい」と言われます。これが学校や職場の取り組みとしてであれば、それは頷ける部分があります。参加者がある種「強制」されて、こうした開発教育を受けさせられるからです。しかし、NGOやNPOが講座や学習会などで開発教育という手法で取り組みを行うときは、この言い分は間抜けな感じに聞こえます。もともとお金を払って、また自主的にこうした講座や学習会に参加するひとはすでにそうした意識を強く持っているからです。そうした意識を持たない人には出会うことはありません。

だからこそ、NGOやNPOが開発教育という手法を求めるときには、その手法によって生み出される問題解決のための方法を具体的に手渡すことが必要になるだろうと思っています。なので、僕自身、なかなか自分の団体で安易に「開発教育」的な手法を使うことができないでいます。ただ、一つできるとすれば「開発教育」というもの自体に興味を持っている「手法マニア」な人に、いろいろな問題そのものを知ってもらえるきっかけにはなるかもしれません。

今日の大学の授業のように、「強制」的にこのワークショップ/ゲームを受けさせられている学生たちを前にして、僕は何を伝えることができるだろう?と改めて考えます。実は講義をするほうがずいぶん楽なんですよね。思っていることを次から次に話せばいいのですから(もちろん「伝える」ためにはそれだけではダメなんですが)。しかし、「貿易ゲーム」をする以上、何かしら得て帰ってもらいたい、といくつかもともとある「貿易ゲーム」に自分なりのアイデアを付け足しながら、90分間やりました。相変わらず最後の方は駆け足になってしまいましたが、終わったあと、「楽しかった」「面白かった」と面と向かって言われ、また「考えさせられる部分がずいぶんありました」と伝えられたときは、「最低限の役割は果たせたかなぁ」と少しだけほっとしました。
 ただ、このワークショップ/ゲームのなかで、彼女たちに「私はこれが問題だと思ったから、こうしたい」という思いまではもってもらえていないだろうという、懺悔もあります。先生からは「これからの授業の良い導入になった」と言っていただけて、「あとはよろしくお願いします」的な気分ではあるのですが、それでも、NGOをやっている人間としての自分への物足りなさはどうしても残ります。

上で偉そうに「問題解決へとつなげること」と書きながら、「強制」的開発教育であったことは差し引いても、やはり難しいことを改めて思います。開発教育はもちろんですが、NGOが伝えたいことを「知りたい人」にだけではなく、「知って欲しい人」に以下に伝え、またその問題を解決するためにどのような具体的な姿を提示することができるか?ということをこれからも考えないといけないと改めて思いました。